華やかなる獣を讃える言葉は、古来、幾千と綴られてきた。たてがみの揺れる馬を、斑紋の走る豹を、翼を広げる鷲を、人は好んで歌った。だが駱駝を歌った詩人は少ない。それでよい。駱駝とはそもそも、歌われることを求めぬ獣だからである。
駱駝の身体には虚飾がない。背の瘤は蓄えであり、長い睫は砂塵への備えであり、閉じうる鼻孔は嵐への構えである。広い蹄は沈まぬための知恵であり、乾きに耐える血は幾万年の淘汰が残した遺産である。すべてが要る。何ひとつ飾りがない。武器のように冷厳で、祈祷のように清い合理がそこにある。機能がそのまま風格となる瞬間を、自然はまれにしか許さぬが、駱駝はまさしくその稀なる一例である。
駱駝は急がない。疾駆して世界を圧する獣ではない。灼ける風と痩せた大地のあいだを、ただ黙して進む。弱さを覆い隠す虚勢もなく、敵を威嚇する咆哮もなく、ひたすらに前へ歩を運ぶ。すぐに勝つ者の顔ではない。最後まで残る者の顔である。ゆえにその姿には、英雄の昂揚ではなく、王の静謐がある。喝采の只中に立つ王ではない。誰もおらぬ荒野を、あたかも当然のごとく治めている王の気配である。
かの獣を一語で言い表すならば、こうである。
駱駝とは、世界の苛烈に削られてなお崩れざりし者のみが帯びる、沈黙の威厳そのものである。
あるいはこうも言える。砂漠とは生命に対するほとんど敵意であるが、その敵意が自らの誇りを一頭の獣のかたちに結晶させたとき、駱駝が生まれた。砂の海を渡る船ではない。乾いた世界が、己の気高さを証すために造り出した、唯一の彫像である。